かわいいの罪/古く新しい言葉を求めて

ねこを腕に抱っこしていて「かわいいな」と思った次の瞬間に、ひどく嫌な気持ちになる。わたしは「大人しく」、「頬をすり寄せて」、「自分の腕のなかを好む」ねこに「かわいい」と思ったのだ。そんな暴力があるか。あるのだ、確かに、わたしには。  

暴力を用いないための唯一の方法は、まずは自分のなかにある暴力性から目をそらさないこと、まずは「ある」ことを否定しないこと、と信じていても、嫌な気持ちになるのは当然のことだった。動物にせよ子どもにせよ大人にせよ、生きものに対して「かわいい」と感じるとき、わたしたちは相手を大いに見下し、自分の力のかなう相手であることを認識している。 わたしはあなたより強く、あなたはわたしより弱い、わたしはあなたより優れていて、あなたはわたしよりも劣っている、そう認識しなければわたしたちは誰かを「かわいい」と言うことなどできない。
平々凡々な「かわいい(女の)子」という言い回しも、二重三重にひどいものだと言わざるをえない。まあ例外はある。本当に親しい間柄で、尊敬しあえていて、一年に一回くらいなにかの場面に「かわいい」という感想を持っても、それは(たいていの場合)平和なことだと思う。たいていの場合というのは、場面によっては不適切なときもあるという意味だけど。

わたしたちは言葉を選ばねばならない。言葉を選ぶのは「配慮」ではない。「かわいい」が上から下へと流れていく言葉であるように、「配慮」もまた上から下へと注がれるものだから。必要なのは礼儀で、相手にとっても礼儀を損なったと感じられることのない「かわいい」であるか、あるいは本当にそれは「かわいい」のか、胸をはって、どのように掘り下げられてもわたしは「かわいい」を撤回せずにいられるのか、わたしは考えなければと思う。 現代に横行しすぎた無礼にあらがうのは、言葉狩りとは違う。それで何も喋れなくなるとすれば、わたしたちには新しい言葉が必要なのだ。古く新しい言葉。あなたが大切だ、愛しているよ、暖かくてうれしいよ。