気分の季節

今日の吾輩は、朝からよく甘えた。乱暴な物言いなので言い換える。心身にとって適切な距離をつくり直していた。遠さげるのではなく近づけることであったのは寂しかったからか、寒かったからか、つまらなかったからか、愛情をかけたくなったからか、心のうちまではわからない。

吾輩もふたつも、当然のことながらおおむねマイペースだが、吾輩のほうがなにかと神経質な部分が多く、なかなか気が休まらなそうだと感じることがある。それはもちろんわたしの主観で、リラックスも緊張もすべて彼女のペースだけれども、とはいえ最近の吾輩はけっこう気持ちがよさそうだと思う。
わたしに抱っこされているときにふたつに見られても逃げなかったり、吾輩が日なたで眠る部屋をわたしが出入りして、なんならちょっと写真を撮っても身じろぎせず目をつむっていたりする。
ねこにとっては人間からの制約の多い台所にもよく現れて作業を覗くし、そこで目が合ってもばつの悪そうな顔をしない。我がもの顔というべきか? 9ヶ月経って、また一段と新しい家に慣れてきたのだとも感じる。それはわたしにとっても同じことだった。

そうした安心の土壌が耕されてきたところで、吾輩がたいへんな気分屋かつ消極的な寂しがり屋であることに変わりはない。人間を含め動物は環境に左右されるけれど、環境などが左右できないのもまた動物だ。
その点でいえば、ふたつはわりと一貫している。わたしたちや吾輩のそばにいるのと遊ぶのが好きで、人が仕事したり忙しくしているのが嫌い。ふたつの率直でシンプルな一面も、抱っこをねだりつつ距離をとる吾輩のふくざつな一面も、わたしにとってはこの上なく愛おしい。大好きだから、わたしにとって不都合なすべてが愛おしい。

季節の中にも季節がある。春の中の秋、夏の中の冬、秋の中の夏、冬の中の春。抱っこされたいとき、ただ近くにいたいとき、これ以上近寄ってほしくないとき、ちょっと姿を隠したいとき、床で食べたいとき、ベッドで食べたいとき、彼女の気分の季節のなんと美しいこと。気分があることの美しさ!
心のうちまではわからない。わからないのが気分というもので、だから感じられるのだ。異なる動物どうしのわれわれ。