生活を作ること、すなわち執念

引っ越しから一ヶ月、ずっと生活を作る作業を続けている。模様替えや、ライフスタイルの変化にともなうDIYなどの経験はぼちぼちあるが、「よそ」の室内を自分たちの生活様式に合った構造へと変えていく作業ははじめてだった。 くたくたで、思うように事が進まず、ねこたちもまだまだ不安がっているし、時間ばかりが過ぎていく、一食作って食べるにもやたらと労力がかかり、買い物ばかりがかさんでえげつない出費にどっと気が重くなり、自分たちはいったい何をしているのかと病みそうになる夜、しかし朝になれば少しずつ自分たちの家になりつつあるのを振り返ってにんまりとする、その繰り返し。

欲深さに対して体力がなさすぎるわたしが、もうしんどい、よくはないけどもうこれでいいよ、これでいいってことにしよう、と言い出す場面で、同居人はかならず理想を実現させようとする。
ここには棚があるべきだと思えば、どんなに疲れていてもドライバーを持ち、満足のいく景観のための出費を惜しまない(限度は大いにあるのがまた疲れの種だが)。好ましい生活、その家を作り上げるために妥協を許さない。納得し、満足し、曇りのない愛の出現のために注力する。

その気力といったら執念じみている。早々に「まあいいか」と結論をくだしがちな自分のこともわたしはけっこう好きだが、とことん満足することの大切さはよくよく感じている。執念とは信念である。信念をつらぬくのは非常に気力のいることで(多くの場合には、お金や時間も)、大切だと思う事柄について妥協できないのは、しんどいことだ。どうでもいいと思えるほうが、そりゃ楽に決まっている。しかしどうでもよくなれないこだわりが、わたしたちの生活に自分という存在の輪郭を与える。
拠りどころとなって、わたしたちを支えてゆくのだと。