To 猫語翻訳アプリ, or not to 猫語翻訳アプリ

猫語翻訳アプリなるものを使いたい。正確には「にゃんトーク」という。幸い、スマホはあるし容量も空いている、ねこもいるし(うれしい)、なんと二匹もいるし(うれしい!)、鳴いてもくれる。その気になればいくらでも使えるのだが使えない。負けた気がする。

コーヒーを淹れてツイッターを見ると、今日も見知らぬねこたちの言葉が翻訳されていて、それはもうたいそうかわいい。ぜんぜん知らないねこなのにかわいい。負けた気ってなんなんだ、と自分でも思って、淹れたコーヒーを立ちっぱなしで飲みながら考えていた。

本気の猫語ネイティブ翻訳機でないことくらいはわかっているし、それも込みで滑稽で楽しいみたいな部分だってあるわけだし、仮に個人情報が吸われてもいい。みんなが使っているから使いたくないわけでもない。使いたいのは本当だというところがまずもってめんどくさい。ねこたちにもっとめろめろになる機会ならいくらあってもいいし、いくらでものろけたい。あのちょっとドライな、言いっぱなし感のある翻訳もいいと思う。じゃ、なんなんだ、この負けた気……と思い、くどくど言ってないで使うかと思ってインストールしかけたこともある。でも負けた気がして踏みとどまった。よくわからないが負けた気がする、という心境じたい負けている感じがして気に食わない。考えている。

人間にせよ動物にせよ植物にせよ、あるいは食材でも本でも絵画でも写真でも、他者としてのなにかと関わるとき、いつでも、利己がわたしの背中に張りつく。冷や汗を呼び起こす。「品定めをし、愛せるものを愛し、美徳へ取り込み、生活へ巻き込み、踏みつけたものには目もくれずに、与えなかったものを正論で包装し、見えるものを見て、見たいものを見るのか?」。
その一方で、利己はわたしの大切なパートナーであることを思う。必要悪なんかではなく、むしろ清潔さを賞賛しすぎる世の中で、偽善が偽善であることを見失わないために、わたしを生かしてくれる大切な意地であることを思う。利己と抱き合えずに、誰かのために何ができるのかと思う。

ねこの言うことはいつも、たいていはわかる。どうにもこうにもわからないときもあるけれども、可能性の想像すらできないほどではない。「わかる」は暴力にもなり得る、というか暴力「でもある」けれど、やっぱりわかるものはわかる。わかってしまう。それが一緒に暮らすということなんだと思う。

でもわたしがここで、信憑性などないとわかっていながら、遊びはんぶんに、ねこの言うことをわたしの言葉に翻訳させてしまったら、「わかる」はもう暴力「でしかなく」なってしまう。翻訳された言葉が事実でも事実でなくてもかまわない。わたしの言語へ引き寄せることそれじたいが、暮らしを、本当のところはわからないまま、わからない存在どうしであるままの大切な暮らしを、その信頼を打ち砕いてしまう。

といっても、ねこは、おそらく大して気にしない。だってそれは、そういうものだ。わたしだけが気にしている。そういうもの。ねことの暮らしなんていうのははじまりからして利己まみれなのだから、打ち砕かれる信頼というのは、わたしの愛すべき利己との間にあるものなのだと思う。わたしがねこから貰うもの、実はねこには関係ない。そういうもの。