雪の座標

ここに越してきてはじめて雪が降った。関東でもかなり積もったところもあるようだったが、ここは温暖な土地らしくなんとか積雪という感じで、それでもわたしにとってはたまらなくいい日だった。
窓にそって設置しているキャットウォークから外を見ていたねこたちにも雪はわかるらしく、しばらく様子をうかがっているみたいだったけれども、やがて納得したのか、あるいは納得できないことに納得したのか、そのまま居眠りはじめていた。

雪は降っても数年に一度で、積もることはまずない土地でマンションに住んでいたとき、ふと雪が降っているのを見つけると(あの街の雪は見つけないとわからない)ベランダに出ていったり、マンションを降りて外へ雪をたしかめに遊びにいったりした。なのにここでは家から出ずに、少しずつ庭の土の上に積もっていく雪を、ねこたちが眠る窓ごしに見ている。わたしはどうして飛び出したくならないのだろうと考えたが、やはりここは土の上なのだと思う。
マンションやビルは内と外をくっきり分ける。わたしが都会であればあるほど街が好きなのは、そうしたくっきりとした建築物が人の流動とともに街の一部として息づくからだと思う。雪は街にも降る。街は雪の一部になる。けれどマンションの室内から雪を見つけても、それがここに降る雪だとは感じられない。わたしの住む部屋があり、外があり、そこに雪が降っている。座標を一致させるには、わたしが外へ出て雪に触れるしかない。自分の住む一軒家のなかから降雪を見ていて感じるのは、それは自分の雪だということだ。所有物という意味ではなく、わたしの住む家も庭も空から降る雪も同じ座標にあるということ。静かな日だった。雪国がそこに住む人びとに絶えずほどこす特別な感性を想像する。常夏の地、海のそばの地、歴史の地、特別な淋しさと歓び。

吾輩はその後、しばらく怒っていた。たぶん寒かったのだと思う。ふだんない雪が降るくらいなのだから、気温に対する吾輩の怒りもふだんとは違う。やがて怒り尽くしたという感じで、ふたたび眠った。ふたつはわたしたちの静謐な気分につられて、いつになく心地がいいようだった。対流型ストーブが点くと部屋の上方が暖かくなることを知って以来、キャットウォークの最上階にのぼって、窓の外を見つつ、とろけてねむる。